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時刻表でふりかえるニッポンあのころ 運転時刻や列車情報を整然ととどめ、幾年変わらぬ姿のような時刻表。そんな、正確・質実が身上の時刻表だからこそ、歴史をさかのぼり、一冊一冊ページをめくっていけば、今とつながるあのころの日本の姿が見えてくる。 第1部「新幹線」はコチラ

VOL.1 “「ディスカバー・ジャパン」がつくった旅スタイル ~70年代の時刻表から~

観光キャンペーンのはじまり

 いま、観光キャンペーンといえば、鉄道会社や地元が一体となって、見どころやイベント、それらを回るルートを紹介し、さらには広告代理店を通してポスターや雑誌の広告などを使って効果的な宣伝を行う、といったものをイメージする。

 代表的なのは「デスティネーションキャンペーン」で、JRグループ6社とキャンペーン開催地の自治体、旅行会社などが協力して、3~4カ月間繰り広げられる。「デスティネーション」とは、“目的地”の意だ。1978(昭和53年)11月からの「きらめく紀州路」キャンペーンを皮切りに、現在まで続くロングセラーのキャンペーンといえるだろう。

 ちなみに4月23日から7月22日までは、東北新幹線の新青森駅開業に合わせて「青森デスティネーションキャンペーン」が行われていて、各種イベントが開催されたり、リゾートトレインが走ったりしている。

 こうした大々的な観光キャンペーンのはしりとなったのが、1970(昭和45)年10月から76(昭和51)年12月まで続いた「ディスカバー・ジャパン」である。

“万博輸送”を逃すな

 1970年は日本万国博覧会(大阪万博)が開催され、当初の予想をはるかに上回る6421万人が訪れた。日本全国から万博会場へ人が押し寄せたわけだが、人々の多くは鉄道を利用し、新幹線はもちろん各地で臨時列車が増発された。新型車両がつくられ、冷房車も増やされた。だが、万博にも終わりがある。3月14日から9月13日までの半年間で、にわかづくりとはいえ、飛躍的に進歩した鉄道輸送力を、さらには人びとに芽生えたであろうレジャー欲を、無駄にすることなくその後にどうつなげていくか。その解決策が、「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンだった。

 この過去に例のない大型観光キャンペーンに、当時の国鉄は総力をあげて取り組み、プロデュースは電通が担当。全国50カ所の駅前に「DJタワー」と呼ばれるシンボルタワーが建てられ、「DISCOVER JAPAN」とキャッチフレーズである「美しい日本と私」の文字が刻まれた。およそ1400カ所の駅にスタンプが置かれ、コンプリートするためのスタンプ帳がつくられた。

 メインターゲットは若い女性で、当時創刊された二大女性誌『an・an』(マガジンハウス/70年3月創刊)と『non・no』(集英社/71年5月創刊)には、鉄道旅の紹介記事が多く掲載され、「アンノン族」が各地にあふれた。「若い女性」と「鉄道の旅」という、一見対極にありそうなものを結びつけ、新たなスタイルとして提案した。彼女たちに人気だったのは木曽路で、妻籠の観光客は5年で10倍近くになったという。

観光地よりもイメージ先行

 ターゲットが若い女性だったからか、全体的にイメージ戦略の色が濃かった。

 なにより旅の目的地の候補はとくに挙げられていない。現在の「デスティネーションキャンペーン」が毎回、はっきりと特定の地域をターゲットにしているのとは対照的だ。ポスターには、ヤギが引く枯れ草を積んだ荷車に若い女の子がギターを手に乗っているシーン、寺の本堂に女性が座っているシーンなどと、どこか幻想的な写真が使われ、撮影地の情報などはいっさい掲載されなかった。

 同じ70年につくられた富士ゼロックスのCMで「モーレツからビューティフルへ」というフレーズがあった。商品のアピールはまったくなく、加藤和彦扮するヒッピー姿の若者が「BEAUTIFUL」と書いた紙と花を持って銀座をふらふらと歩き、BGMはひたすら「ビューティフル」を繰り返すという、ある意味こちらも幻想的な映像だった。

 広告は時代を映す鏡ともいわれるが、60年代の「モーレツ」な高度経済成長時代から万博を経て、ひと息ついて自分を見つめ直したい、という当時の風潮を表していたのかもしれない。

時刻表はあくまで情報重視だった

 では、当時の『ダイヤエース時刻表(現・JR時刻表』はどうだったかというと、これがあまりにあっさりとしている。9月までの万博開催時期の号には、会場までの交通案内、周辺交通図をはじめ、開閉場時間や入場料金まで網羅されていて、情報誌としても十分に役立つ誌面である。

 ところが、ディスカバー・ジャパンキャンペーンが始まった『ダイヤエース時刻表』70年10月号には、キャンペーン開始の告知もなければ、特に浮き足だった雰囲気もない。ただ、巻末の観光ガイドのページは、「山陽、山陰の旅」として44ページにわたって特集が組まれている。倉敷、宮島、松江、秋吉台といった観光地の見どころ、エッセイ、各県ごとのお土産品と、ぎっしり紹介されていて、観光イラストマップが多用されている。今でも観光地の駅前などに大きな看板に描かれたイラストマップを見かけることがある。どこかあかぬけないタッチで、正確な距離が描かれているわけではないかもしれないが、見どころがひと目でわかるのがいい。こうした時刻表巻末の観光ガイドページは、広告出稿と併せて北海道、南九州、南紀などと各地が集約され、充実の度合いを増してゆく。現在の旅行情報誌の基礎がここにある。

 さらには、筒井康隆氏や黒岩重吾氏の連載、詰将棋・詰碁、映画評、レコード評、ファッション評などのコーナーもできて、さながら総合誌の体を成しているのが70年代の時刻表の楽しいところである。

アンノン族はその後ハネムーンへ?!

 そんな時刻表の充実の巻末記事に、レイルウェイライターの種村直樹氏の連載で「旅行学入門」というページがある。76年3月号のテーマは「ハネムーンと婚前旅行」。今では結婚式の後にすぐハネムーンに出発、ということはあまりなくなったと思うが、当時は結婚式とハネムーンはセットであった。海外へ行くカップルも増えてはいたが、まだまだ主流は国内旅行。国鉄利用が601km以上だと運賃が2割引きになる「ことぶき周遊券」なるものがあったこと、当時のトレンドは4泊5日か5泊6日で南九州や北海道、予算は1組20万円、シーズンの大安だと国鉄のA寝台やグリーン車、観光地の一流旅館は新婚さんであふれる、とある。

 旅行先で人気だったのは、南九州のなかでも特に宮崎で、67年から72年までは京都と宮崎を結ぶ「ことぶき号」という列車が10~11月の大安の日に運転されていたという。編成は時期によって変わったがA寝台と食堂車という豪華寝台列車だったこともあり、当時の憧れの列車だったに違いない。

 勝手な想像ではあるが、70年から始まったディスカバー・ジャパンキャンペーンで旅行欲を刺激された若者たち(主に女子)は、数年後に結婚し、ハネムーンでより贅沢な旅を実現させる。彼らは団塊の世代といわれる年齢層とほぼ等しい。そしてベビーブームが訪れる。そう考えると、ディスカバージャパンは、日本人の旅行欲を刺激しただけでなく、70年代以降のライフスタイルや流行のつくり方にまで影響を与えたといえるだろう。鉄道サービスの分野では、このキャンペーンをきっかけに、周遊きっぷなどのお得なきっぷが発売されるようになる。

(つづく)



ディスカバージャパンの後続キャンペーンも行われた。「1枚のキップから」(77年3月号~78年9月号)、「いい日旅立ち」(78年11月号~83年10月号、不定期)、「エキゾチックジャパン」(84年3月号~87年3月号)のロゴが表紙に配された

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文:屋敷直子

参考文献:
『鉄道黄金時代~「ディスカバー・ジャパン」の光と影~(図説日本の鉄道クロニクル7巻)』講談社
『「ディスカバー・ジャパン」の時代 新しい旅を想像した、史上最大のキャンペーン』森彰英/交通新聞社

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