森田芳光監督 鉄愛エッセイ 鉄道が「少し好きです。」

Vol2 鉄道いっぱいの町・渋谷にうまれて ~少年時代の渋谷界隅、鉄道はこんなだった~

『僕達急行 A列車で行こう』の監督、森田芳光です。僕の生まれ育ったところは、渋谷の円山町、そう渋谷駅からは 歩いて5分という、大変めぐまれた鉄道環境に接することが出来たわけです。

 山手線の渋谷駅ホームに立つと、奥では長い貨物列車が走っている光景を観ることが出来ました。それが、現在の湘南新宿ラインの線路なのです。その列車が恵比寿のビール工場の横を通る姿は圧巻でした。

 営団地下鉄銀座線の車庫は、今でいうと、井の頭線に沿った坂の途中にあり、現在も同じところにあるのですが、大分見えにくくなりました。プロレスの殿堂、「リキパレス」も近くにあったんですよ。 東急東横線の急行は緑色、各駅停車はオレンジにブルーだった記憶があります。当時でも渋谷-桜木町間を30分で結んでいたのですから、あまりかわりませんね。たしか休みの日だけは多摩川園前に急行も止まったはずです。

 多摩川といえば二子玉川園行きの玉電というのもありました。これは、すごいですよ! 今の国道246号線を路面で走るんですから。今の「渋谷マークシティ」のところから、電車が飛び出して来ると思ってください。あの大橋から池尻の急な坂をどうやって走っていたのでしょう。僕が記憶している車体デザインは、イモムシ型の緑色。その線が三軒茶屋でわかれるわけです。三宿、駒沢、なんかは玉電の駅名の記憶で、なつかしい気がします。東横線の「多摩川園」と玉電の「二子玉川園」と、僕はどちらに多く行ったかというと、格的には二子玉川園のほうですね。何しろジェットコースターがありましたから。

 自分の家と渋谷駅は近いと書きましたが、本当はもっと近い駅があるんです。それが京王井の頭線の神泉駅。ここはトンネルとトンネルの間にある駅で、変わった駅です。子供のころはドアがあかない車両があったくらいホームも短かったのです。改札も当時はひとつしかなく、石で造られた改札ゲートが印象的でした。僕は、家で何もすることがないと、この駅に電車を見に行きました。上りも下りもその改札をお客さんは通過するので、その人たちの表情、歩く様子をみるのが面白かったし、何といってもトンネルからもれてくる光のあとに電車がくるのがたまりませんでした。

 そうなんです、こうした環境で育った僕がこれから映画上映まで少しこの場をお借りして、鉄道関係のことを書きますのでよろしくお願いします。

渋谷駅付近

昭和32年の渋谷駅付近。東横百貨店(現東急百貨店東横店)屋上より、右が国鉄山手線、左が東急東横線


道玄坂

昭和44年の道玄坂を走る玉電。左は通称「ペコちゃん」 車両。この年、現在の世田谷線を除いて廃止された


渋谷貨物駅

昭和49年の渋谷貨物駅。同駅での貨物取扱は昭和55年 に廃止され、平成8年以降は埼京線などに利用

脚本・監督 森田 芳光

1950年1月25日東京都生まれ。81年『の・ようなもの』で映画監督デビュー。『家族ゲーム』(83)で数々の映画賞を受賞し脚光を浴びる。 『それから』(85)はキネマ旬報ベストワンをはじめ、各賞を受賞。『ハル』(96)で第6回日本映画批評家大賞監督賞、第20回日本アカデミー優秀脚本賞ほか、数々の賞を受賞した。禁断の愛を描いた渡辺淳一の同名ベストセラー小説『失楽園』(97)を映画化し、大きな話題となる。以後も『模倣犯』(02)、『阿修羅のごとく』(03)、『間宮兄弟』(06)、『椿三十郎』(07)と精力的に 様々なジャンルにわたり 作品を世に送り続ける。オリジナル脚本として手掛けた『わたし出すわ』(09)、新しい時代劇を描いた『武士の家計簿』(10)が公開された。

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