森田芳光監督 鉄愛エッセイ 鉄道が「少し好きです。」

ぐるぐる山手線、1周しました ~あのころと変わった風景・変わらない風景~

 誰でも一度はやってみたくなる旅、山手線1周の旅。僕も小学生の早い時期に敢行しました。小さいころから浜松町の芸能学校に通っていたので、他の区内生徒よりは遠征に慣れていましたから。渋谷から内回りで行くか、外回りで行くか。当然なれた品川、東京経由の内回りです。

 恵比寿ではビール工場側に貨物の線路があったのに、目黒ではいつのまにか貨物路線はホームの眼下にあります。当時、大崎という駅は殺風景でした。今のように高層ビル乱立のビジネス街ではなく、工場地帯の駅という感じでした。大崎止まりという山手線は今でもありますよね。そこにくらべ品川は乗降客が多いターミナル駅です。もちろん、そこに新幹線の駅が出来るなんて知る由もありませんが、とにかくお客さんは入れ替わっていました。そして浜松町、ここはホームにションベン小僧がいることで有名です。季節ごとに衣装がかわったりしていました。

 そして新橋、有楽町、東京と子供でもおなじみの駅を通ります。ここらへんは子供1人で乗る姿はあまり無いところです。問題はここからです。秋葉原や上野は、渋谷から営団地下鉄(当時)で来るので山手線はなじみがありません。窓の外には太陽が見えます。電車の風景と太陽の追っかけ、僕の楽しみのひとつです。そこに京浜東北線がカットインされたりもします。ある区間、両電車は競争するわけです。それを、運転手さんは意識しているのかいないのか、微妙です。あっというまに未知の駅、日暮里や巣鴨を走ります。

 そして大塚、テレビのCMで当時さかんにやっていた結婚式場が駅の目の前でした。池袋はのちの大学時代にお世話になる駅なのに、その時は大きい駅ぐらいの認識でした。遠くに見える電車が西武線なんだという思いぐらいでした。そして、新宿、ここは、歌舞伎町にあった東京スケートリンクに行くときなどに友達同士よく使う駅です。

 旅の終わりは原宿を予定していました。山手線1周チケットなんてありませんから、渋谷からお金のかからないように下車しなくてはならないからです。原宿なら代々木のスポーツセンターはよく行くし、渋谷まで歩くのは何ともありません。原宿から渋谷に歩いて帰るとき、山手線が走っています。あー、僕は1周したんだな。あらためて自分だけの思い出をふりかえりながら、山手線を見送りました。

 こうしてみると、大阪環状線の旅も今更やってみたいと思う今日この頃です。

浜松町駅

浜松町駅の小便小僧。毎月の着せ替えは、その場で布を ボディに合わせて裁縫して仕上げる


大塚駅北口側

大塚駅北口側(写真左側)にかつてあった結婚式場『角萬』 には、ビル屋上に金閣寺似の建物があった


103系車両

昭和38年に山手線に投入された103系車両から、おなじみのウグイス色の車体となった(写真は昭和57年、有楽町駅にて)

脚本・監督 森田 芳光

1950年1月25日東京都生まれ。81年『の・ようなもの』で映画監督デビュー。『家族ゲーム』(83)で数々の映画賞を受賞し脚光を浴びる。 『それから』(85)はキネマ旬報ベストワンをはじめ、各賞を受賞。『ハル』(96)で第6回日本映画批評家大賞監督賞、第20回日本アカデミー優秀脚本賞ほか、数々の賞を受賞した。禁断の愛を描いた渡辺淳一の同名ベストセラー小説『失楽園』(97)を映画化し、大きな話題となる。以後も『模倣犯』(02)、『阿修羅のごとく』(03)、『間宮兄弟』(06)、『椿三十郎』(07)と精力的に様々なジャンルにわたり作品を世に送り続ける。オリジナル脚本として手掛けた『わたし出すわ』(09)、新しい時代劇を描いた『武士の家計簿』(10)が公開された。

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