2024.09.17ジパング俱楽部東海道新幹線開業60周年特別編「新幹線」|ジパング世代はどうしてる?
今回は、2024年10月1日に開業から60周年を迎える東海道新幹線にちなんで実施した【新幹線】についてのアンケート。
60周年の記念日を前に、結果を公開します!
ジパング世代の皆さんが初めて新幹線に乗車した時の思い出や、新幹線に関するエピソードをたくさんいただいたので、自分の思い出を振り返りながら楽しんでください。
- ※調査期間:2024年6月17日~7月14日
- ※回答者:「giftee Box」にご応募いただいた60歳以上の方で新幹線に乗車したことがあると回答した方288名
Q1.乗車したことがある新幹線の路線は?(複数選択可)
開業60年を迎える東海道新幹線が1位に輝きました。2022年に開業した西九州新幹線はまだ乗車した人が少ないようですが、乗ってよかったというコメントをいただいています。
- 西九州新幹線が開業したので、娘とぜひ乗りたいと思い、武雄温泉から長崎まで乗りました。せっかくだからとグリーン車に乗り、和風の落ち着いた車内と、かもめのロゴが大変気に入りました。乗れてよかったといい気分になりました。(74歳 女性)
Q2.はじめて新幹線に乗車したのはいつですか? 思い出を聞かせてください。
1960年代
- 【1964年 15歳】東海道新幹線の試験運転の時、確か小田原駅から東京方面の区間でした。市内の各中学校の代表と一緒です。210キロが車内に表示された時は興奮しました。(75歳 男性)
- 【1964年 20歳】東京オリンピックに同じチームの先輩が全日本のエースとして出場、その応援に出かけました。すごいスピードに感動。何か偉くなったような錯覚を起こしました。(80歳 男性)
- 【1964年 7歳】東海道新幹線が浜松~静岡間を走り始めた時(もしかしたら試乗?)。父が仕事場から学校帰りの私を迎えに来て、乗せてくれた思い出です。(67歳 女性)
- 【1965年 15歳】転勤のため、家族ともども新大阪から東京へ。窓が大きく、高架からの景色が速度の割に遅く流れていくように感じましたが、すれ違った反対方向の新幹線でその異次元の速度を痛感しました。(74歳 男性)
- 【1965年 9歳】初めて新幹線に乗車したのは、新大阪から東京までの「ひかり」号です。母に連れられて、母の実家に帰るために利用したようです。確か、新大阪からわずか4時間で着いた記憶があります。車窓から見える景色が飛ぶように消え去っていくのを、驚きと不思議さで見つめていました。本当に速かった、光のように!(68歳 男性)
- 【1966年 17歳】高校の修学旅行の帰路、新大阪から東京まで乗車しました。新幹線「こだま」のスピードには大変驚き、ビュッフェでカレーを食べた記憶があります。往路は、名古屋まで電車急行の「東海」でした。現在からすると、負担金の削減のための長時間の旅でした。(75歳 男性)
- 【1966年 6歳】両親、祖母、弟と熱海~東京で伊豆への観光で乗車しました。往路は新宿からロマンスカー、復路は新幹線という贅沢な旅行だったと思います。当時の喜んでいる写真を見ると、最高の旅行でした。(64歳 男性)
- 【1968年 12歳】小学校の修学旅行で初めて新幹線に乗りました。東海道線の電車にも初めてで、静岡駅から東京駅へ。国有鉄道のないところに住んでいましたので、とてもはっきりと覚えています。速さに驚きました。(68歳 女性)
- 【1968年 15歳】名古屋に下宿していた兄のところに遊びに行った時。新大阪から名古屋へ、初めてのひとり旅です。新幹線の快適さに驚いたことは懐かしい思い出です。(71歳 男性)
- 【1968年 15歳】名古屋から東京まで、母と東京の親戚の家を訪問しました。銀座でとてもおいしいパフェを食べました。東京は人がとても多くて、ビルも多くて、都会だなと思いました。(71歳 女性)
- 【1969年 6歳】名古屋から、菊川の親戚の家へ遊びに行くために、初めて新幹線に乗りました。幼かったので記憶は少ないですが、最初はカッチリとした車両に乗り込むのが怖かったです。乗ってからは窓際に座り、ビュンビュンと外の景色が変わっていくのをずっと眺めていた思い出があります。(61歳 女性)
1970年代
- 【1970年 11歳】夏休みに家族と浜松駅から大阪万博(日本万国博覧会)旅行へ行きました。新幹線は「すごく速いなぁ〜」と。大阪では初めて地下鉄に乗り「地下鉄なのに地上走っている?」と思った思い出があります。(65歳 男性)
- 【1970年 17歳】修学旅行で東京から京都まで。貸し切り車両ではなく、車両の半分くらいに一般客が乗っていたのであまりはしゃげなかった覚えがあります。(71歳 男性)
- 【1970年 6歳】大阪万博の帰りに家族で乗りました。行きは夜行列車でした。新幹線は夢の超特急。当時は新横浜に停車するのは「こだま」のみ。ひかりは夢のまた夢でした。(60歳 女性)
- 【1971年 12歳】母と新幹線の一番前の車両に乗りました。時速のメーターを見て、その速さに感動しました。(65歳 女性)
- 【1971年 17歳】高校の修学旅行。「すごい」と思ったと思います。でも、新幹線の中で食べたチキン弁当がすごくおいしかった、という思い出の方が強く残っています。(70歳 男性)
- 【1971年 18歳】家族3人で名古屋から新大阪まで、万博に行く時に利用しました。当時は高校生でしたが、窓際の席で飛ぶ景色を見ていた記憶があります。(71歳 男性)
- 【1971年 18歳】長野県へスキーに行く時、新大阪から名古屋まで「こだま」に乗車しました。当時は今と比較して本数が少ないので、始発にもかかわらずよく混んでいました。名古屋からの夜行急行「きそ」はガラガラでした。(71歳 男性)
- 【1971年 19歳】当時東京に住んでいたので、名古屋の実家に帰省する時ひとりで乗りました。富士山を見るのが楽しみでした。(72歳 女性)
- 【1972年 15歳】中学校の修学旅行。行きに東京駅から京都駅まで乗車しました。当時は費用からか、あるいはスケジュールからか、帰りは夜行急行の「出雲」を利用しました。新幹線は速かった。(67歳 男性)
- 【1972年 21歳】初めてのひとり旅。新幹線で新大阪に行き、大阪から夜行列車で米子駅で降り、伯耆大山に登りました!(73歳 男性)
- 【1972年 8歳】一家4人で東京から浜松まで乗車しました。その年から始まったコンピューターのショー(データショウ)に行きました。(60歳 女性)
- 【1972年 9歳】名古屋から浜松まで。夏休み、祖父母の家に行くために乗りました。名古屋のホームまで父親に来てもらい、浜松のホームで祖母に迎えてもらうひとり乗車でした。楽しさよりも緊張でいっぱいでした。(61歳 女性)
- 【1973年 16歳】家族で旅行に行くために、岡山から新大阪まで乗りました。「速い」というのが第一印象です。ますます鉄道が好きになりました。(67歳 男性)
- 【1973年 17歳】高校時代、修学旅行で郷里の熊本から北海道へ。修学旅行でした。熊本から岡山までは在来線の特急で、岡山から山陽新幹線で東京までの長旅。乗車した時の快適さ、その速さに感動したことが昨日のことのように思い出されます。(68歳 男性)
- 【1974年 11歳】両親と上野動物園にパンダを見に行きました。私にとっては、はじめての新幹線の日帰り家族旅行でしたので、とてもうれしかったことを覚えています。その思い出があったので、昨年5歳と9歳の孫と新幹線に乗って、浅草やスカイツリー、上野動物園に行くことができました。とても喜んでくれました。ありがとうございました。(61歳 女性)
- 【1974年 16歳】修学旅行で初めて乗りました。新幹線からの景色が変わるのが速く、見たことのない景色に不思議な気持ちでした。新幹線は揺れない、でも気持ちはワクワク。到着せず、ずっと乗って楽しみたかった時間でした。(66歳 女性)
- 【1974年 21歳】大学の同じ研究室の仲間数人と、就職のための採用試験を受けに行きました。在来線よりずいぶん速く快適だなと思いました。(71歳 女性)
- 【1974年 22歳】勤めだして、大学時代は夜行で行っていたスキーに初めて新幹線を使いました。今で言う『タイパ(タイムパフォーマンス・時間対効果)』を重視しましたが、薄給の身には痛かったです。(72歳 女性)
- 【1974年 24歳】主人の実家に初めて挨拶に伺った時。名古屋から米原まで新幹線で行き、「サンダーバード」号に乗り換えて富山に行きました。新幹線に乗るのも初めて、主人の実家に行くのも初めてで、緊張の連続でした。日帰りで名古屋に帰る時、お弁当を買って食べました。初めて電車の中で食べるお弁当は当時値段が高くて、高級なお弁当を食べられる喜びと、緊張がほぐれた解放感でたちまち食べてしまいました。そして、おいしかった喜びが後からじわじわと湧いてきました。昔の淡い思い出です。(74歳 女性)
- 【1975年 12歳】修学旅行で広島から大阪に行きました。地震があり新幹線が遅れ、大阪城を見学できませんでした。残念。(61歳 女性)
- 【1975年 26歳】会社の仲間と東京から大阪まで旅行に行きました。福島から上京した時は夜行の鈍行で、それから数年で新幹線に乗れるとは。気分最高でした。(75歳 男性)
- 【1975年 28歳】ひとりで小倉から名古屋まで、会社の研修センターへ。山陽新幹線開通前は、寝台特急で東京まで一晩かかり、寝ぼけ眼で東京駅ホームに降りたものです。長旅だがその日のうちに名古屋到着。時代の変化を感じました。東京もすぐそこ、便利だと感じました。(77歳 男性)
- 【1976年 12歳】小学校の修学旅行で京都、奈良へ行きました。時間通りに、規則正しく、座席通りに並び、新幹線の乗り降りの練習を何度も行なったのを覚えています。懐かしいですね。(60歳 女性)
- 【1977年 14歳】中学校の修学旅行で、北九州に行った時、新大阪から博多まで乗車しました。関門海峡を通過している時は、心が踊りました。家庭は両親が高齢で、経済的にも新幹線なんかに乗れなかったので、修学旅行で人生初、憧れの新幹線に乗車できたうれしさは、今も忘れられない思い出です。(61歳 女性)
- 【1977年 17歳】定番の修学旅行で。京都・奈良へ行く時に乗車しました。上越新幹線も開通していなかったので、群馬県出身の私には、初新幹線、初関西、初京都・奈良。友人の多くもそうでした。すべてが初体験、興奮の渦でした。(64歳 女性)
- 【1978年 18歳】高校の卒業旅行で、友人と実家のある神戸から山口県へ行きました。食堂車の利用は、後にも先にもこの時だけでした。車窓を流れて行く景色にワクワクしながら、カレーを食べた記憶が鮮明に残っています。(64歳 女性)
1980年代
- 【1981年 26歳】名古屋から博多まで、里帰りで。当時は、車内販売があり、駅弁とお茶を購入し、家族と談笑しました。(69歳 女性)
- 【1982年 32歳】東北、上越新幹線運転士目指して試験を受け、電機機関士から転換しました。開業の日、11時頃大宮からの下りを担当しました。以降、仕事・私事でよく乗ったので、初めての事はどれなのか。でも、すごいのができたな、と思っていました。(74歳 男性)
- 【1983年 20歳】友達と新大阪から東京まで。ディズニーランドが開園したので、みんなでワクワクしながら新幹線に乗ったのを覚えています。(61歳 女性)
- 【1983年 24歳】東京に住む友人と旅行へ。田舎から出て、都会の人になった友人にドキドキしたことを覚えています。(65歳 女性)
- 【1983年 32歳】初めて乗ったのは、上越新幹線でした。開業当時は新潟~大宮間、目的は出張だったと思います。それまでは、特急「とき」や急行「佐渡」を利用しての上京でしたので、そのスピード感に驚くとともにその後の利便性の向上に期待したものでした。(73歳 男性)
- 【1985年 29歳】出張で、まだ青森まで新幹線がつながっていなくて盛岡から東京まで乗車しました。ひとりだったけど、人の流れにのって新幹線乗り場に着いてほっとしたのを覚えています。(68歳 女性)
1990年代
- 【1990年 31歳】会社に入社して数年後の研修で、横浜に出張した時に利用しました。仲間数人で行ったため、みんな近くの座席を取っており、往路はやや緊張しながら乗車し、復路は研修が終わった安堵感で酒を飲みながらリラックスして帰ってきたことを覚えています。とにかく当時は揺れがなく、スピードも速く、仙台~東京は停車駅も少なく快適なことに驚きました。それから、会社関係で何度も、家族旅行で何度も利用していますが、常に新幹線でした。当時と違って現在はスマートなデザインの新幹線となっていますが、当時は2階建て新幹線にもよく乗り、時代ともに変わっていく様を見ていました。また、新幹線というとコマーシャルで山下達郎の『クリスマス・イブ』の感動CMにも憧れていました。みんなあくせく働いていましたが新幹線に乗るたびにいい時代だったことを思い出します。(65歳 男性)
- 【1990年 35歳】あまり記憶が定かではありませんが、勤めていた頃の研修などで東京を往復したと思います。もっと昔は、上野終点で寝台列車でしたので新幹線の速さや乗り心地のよさにはビックリでした。(69歳 女性)
- 【1991年 32歳】東京出張は夜行列車だったのが、新幹線開通後は新幹線利用になり、宿泊もなくなり日帰りできるようになりました。便利だなあ、と感心したと思います。上野と仙台間です!(65歳 女性)
- 【1997年 38歳】家族で、長岡駅から東京駅まで夏休みの旅行で上越新幹線に乗車しました。2歳の息子と4歳の娘が「Maxとき」に大喜びしたことを今でも思い出します。(65歳 女性)
- 【1999年 42歳】母と長野から東京へ伯母の見舞い、母は看護の手伝いに行きました。とにかく東京まで速いことには驚いた!早く現在の上越妙高駅ができてほしいと願いました。(67歳 女性)
Q3.新幹線に関するエピソードを教えてください。
ハプニング!
- 中学か高校の卒業旅行で京都駅から浜松駅に帰る途上、新幹線がオーバーラン(車掌に聞いたところ、ていねいに説明していただき、オーバーランという言葉を初めて知りました)で途中停車したことがありビックリしました。(65歳 男性)
- 20数年も前の事ですが、東京駅から八戸駅まで東北新幹線利用しました。ギリギリに駅に到着し、慌てて乗車。満席ですが自分の指定席だけが空いていて、座った途端に動き出しました。なんかいつもと雰囲気が違うなあ〜と感じました。やたら若者だらけで、棚の荷物も普通の旅行者のと違いスキー客だらけ、と感じた時に「次は上野~」と放送が流れ、行き先が新潟とアナウンスが……? なんと、東北新幹線に乗車したはずが、上越新幹線だったのです。ギリギリに着いたものの、ひとつ前の上越新幹線に乗ってしまったのです。上野で降りて乗り換えましたが、自分の指定席だけが空いていた、という偶然。「もし埋まっていたら……」。ひと騒動だっただけに、偶然とはいえ不思議でもあり、笑いのネタになった次第です。(68歳 女性)
- 昨年、ケニアに行くために黄熱病ワクチンを打たなければならず予約を入れた日。なんと、静岡の豪雨で新幹線がストップ!接種予約時間に東京に着けそうもなく……でもその日に打てないと、ケニアに行けなくなるのでハラハラドキドキ。何度も接種のクリニックに電話を入れ、「4時まではお待ちして、接種できるよう手配しておきます。」と言われ、祈る思いで新幹線が動き出すのを待ちました。2時間以上待ちましたが、なんとか間に合い、接種することができましたが、帰りがこれまた大変で夜中に帰宅。長い長~い東京日帰りでした。(71歳 女性)
- 東京駅発車直後、私の不注意で買ったばかりのコーヒーをこぼしてしまいました。新幹線が進むので、コーヒーはどんどん後ろの席の方に流れてしまいました。近くの席の方が、すぐに車掌さんに伝えてくれて助けてくださいましたが、コーヒーはたくさんの方のカバンや、おみやげの紙袋、靴を次々に汚していきました(泣)。けれど、10人以上の方々がみな「大丈夫ですよ」と、言ってくださいました。新幹線に乗っている皆さんは素敵な方ばかりだ、と感動したことを覚えています。(61歳 女性)
- その昔、幼稚園児の長男と2人で旅行していた時のこと。乗り換え駅で長男がお気に入り野球帽を忘れたことに気づきました。そこで、こどもと荷物をホームに置いて、車両に戻り野球帽を持って戻ったところ、こどもがいない‼ ホームにいた駅員さんの話では「こどもさんは乗り込んだ」とのこと。次駅で保護してもらい、次の新幹線で追いかけてキャッチできました。今も家内には内緒の話です。(77歳 男性)
- 何回目かの団体参詣で責任者を務めていた時、帰りの博多駅での乗り換えの際に、2人の人の姿が見えなくなったので探していると、新幹線が出てしまいました。その人達は、別の号車から乗って中を歩いてきたみたいで、携帯電話にも出ないので大変でした。私は別の新幹線で熊本まで帰りました。今考えても冷や汗が出ます。(71歳 男性)
- 仙台から実家に帰省する時に、なぜか団体客の号車に乗り合わせ、朝一からお酒をすすめられたことがありました。町内会の団体さんで、いろんなお話を聞かされ、飲まされ、歌いだし、ゆっくり寝て行くつもりが酔っ払ってしまいました。団体さんたちが途中で降りた後は、車内が静かになりました。あまりの静けさに、その後も眠れませんでした。あの時のお酒は、すごくおいしかったです。(68歳 女性)
家族
- 今は見送った両親に会いに月に何度か新幹線で通いました。初めのうちは自家用車利用でしたが、安全安心を考えて新幹線に変更しました。身体負担が軽減してありがたかったです。(65歳 女性)
- 新幹線は、何度も数えきれないほど乗っています。実家への帰省や姉がわが家へ来るのを迎えに行ったり、一年間に4回はお世話になる、なくてはならない交通手段です。京都の紅葉を楽しんだり、最近では姫路からの帰りに名古屋で途中下車をして、以前住んでいた場所を40年ぶりに訪ねました。一番悲しかった思い出は、母が亡くなったことを聞き、新幹線でずっと泣きながら帰ったこと。私の思い出に欠かせない乗り物です。ずっと安全に運んでくださるよう、お願いします。(75歳 女性)
- 今年の春に北陸新幹線に初めて乗りました。生前、父が大切に保管していた北陸新幹線の広告の1ページ。『北陸を駆ける、「和の未来」』というキャッチコピーを見て、「父さん、乗りたかったんやなあ」と思い、父母の写真と一緒に乗りました。車窓を見ながら父母にも見せて、涙が溢れました。行き先は、母が生前妹と行った砺波のチューリップ公園です。新高岡も、その時初めて駅の存在を知り観光を楽しみました。(61歳 女性)
- 約10年前、当時、大学生で東京に住んでいる娘に会うために、定期的に新幹線を利用していました。娘が帰郷して、見送り時は掛川駅のホームまで一緒に行って、見えなくなるまで送っていました。いつも泣けてきました。あとは、年に何回か、推し活で東京ドームに行く際に新幹線利用していました。去年東京に移住したので、今はよい思い出です。(67歳 女性)
- 名古屋の実家へ幼児3人を連れ帰省すると、毎度母がホームまで迎えに来てくれました。戻る時には、同じように母が発車までホームで見送ってくれました。見送ってくれる母に手を振りながら涙がとまらなくて……·。今、その頃の母の寂しそうな顔を想い出しても、涙が溢れてしまいます。(68歳 女性)
- 亡き父は建設会社に勤務していました。開業前の新幹線、大垣工事区間を担当でした。今でも、名古屋から関西方面に向かう車窓で大垣付近に差し掛かると、父は当時どんな未来を想像して工事に携わり、どんな風景を見ていたのだろうと思いをめぐらせます。(60歳 女性)
- 最初の利用から、結婚し、こどもが産まれ、帰省の度利用していたので、利用回数はもう数えきれません。こどもは、出産後東京に戻る時も、最初に乗った乗り物が新幹線でしたのでしたので、しっかり鉄道好きになりました。(65歳 女性)
時代
- 開業間際で「ひかり」号が超特急といわれている時代で、「のぞみ」の誕生前です。速く静かなのに驚いたのと、当時は社内喫煙が可能な時代で、デッキからガラス越しに喫煙車が曇って見えたのを覚えています。(75歳 男性)
- 学生の頃は上京するのに急行「ざおう」を利用していました。特急とあまり時間差がなく、金銭的にはお得感がありました。今は山形新幹線が走り、時間がかなり短縮され便利になりました。でも、必ず指定券が必要になり、ちょっと不便になったとも感じます。(77歳 女性)
- スーツのポケット下の裾が油で汚れており、調べると0系の転換式シートのシートと肘掛けに隙間があり、そこにスーツの裾が触れていた。このため座る時はスーツの裾が触れないようにしていた。(71歳 男性)
- 東京スカイツリーが上に伸びていくのを運転台から見ていました。飛鳥山の桜、福島の桃、岩手山、長岡の花火に遭遇、浅間山、軽井沢の山桜が印象的でした。(74歳 男性)
- 上越新幹線の特徴は、2階建ての車両があったことです。2階から見える景色は格別で(新潟と群馬の県境の長いトンネルを抜けると景色が一変。とくに冬場)自由席の座席確保に早くから並んだ覚えがあります。全般に快適でしたが、冬の消雪スプリンクラーの音には最初びっくりし、慣れるまで何度か睡眠を妨げられた思い出があります。(73歳 男性)
- 最近は気のせいか、昔よりガタガタと揺れる感じがします。同年代の友人からも同じ感想を聞きます。自分たちが年を取ったせいか? 新幹線、線路などが歳を取ったせいか?気になります。自分の結婚式へ妹と向かった新幹線、帰省する娘を送り迎えする新幹線のホーム。新幹線が節目なるんだと感慨深いです。安全第一でこれからもよろしくお願いします。(60歳 女性)
- 山形県で勤務をしていた当時、「のぞみ」が登場して1週間後のことでした。大阪に出張する際、飛行機が満席で夜行バスを使って山形から東京まで。東京から6時発の「のぞみ」に乗りました。新横浜停車後、新大阪まで無停車だったのでびっくりしました。新幹線の洗面所で洗面や体を拭いて身支度を整えたのを記憶しています。よく空いていました。(71歳 男性)
- 新幹線の中はなぜあんなに静かなんだろう。シーンとしていて物音や話し声がまったくしない列車なんて世界的にもないと思います。とくにコロナ禍以降はより顕著になり、新幹線は移動の手段になり、乗車を楽しむものではなくなってきているのが悲しいです。(61歳 女性)
- コロナ直前の京都からの帰路、隣に座った外国人が私たちの食べている駅弁をスケッチし始めました。それがきっかけで会話することになり、熊野古道を歩いたと聞きました。日本人より古きよき日本を味わっていて、うれしいやら恥ずかしいやら〜。(71歳 女性)
- コロナで不要不急の外出禁止令が出ていた時、どうしても東京へ行かねばならず、東北新幹線自由席に乗車。ひとりか二人しか居ない車内を見て、この世の終わり……かと。(69歳 女性)
- こどもの頃住んでいた家のすぐ近所に新幹線ができました。毎日轟音と揺れを感じていましたが、誇らしい気持ちでした。ドクターイエローを見るのは日常のことだったので、ドクターイエロー引退は淋しいです。(66歳 女性)
- 6月に岡山・東京間の「のぞみ」に乗車しました。インバウンドの外国人客で溢れており、時代の変化を実感しました。(77歳 男性)
- 最近では車両がほとんど外国人観光客で埋まっており自分が異国の人の様に思えビックリしました。外国の人達もキチンとマナーを守って乗車していたので、快適に過ごせました。(61歳 女性)
ほっこり
- 関西弁を使うエリアで育ちましたが、大学からは東京へ。帰省の際、新幹線から降りると関西弁に戻りました。逆に、東京に戻る時は、新幹線に乗り込むと標準語になります。新幹線がスイッチの機能を果たしていたようです。(62歳 女性)
- ここ数年、遠距離介護で小田原から新大阪まで月に一度新幹線を利用しています。先日、ドクターイエローが間もなく引退するというニュースを聞きました。なんとその翌日、新大阪駅に停車しているドクターイエローに遭遇。歓声をあげたい気持ちを抑えてスマホで撮影しました。心がホッコリ、幸せな気分で実家に向かう事ができました。コロナ禍でも、ひと車両にごくわずかのお客さんを、時間通りに淡々と運んでくれた新幹線。なんだか愛おしく申し訳なく思う時がありました。今はインバウンドが戻り、にぎやかに感じるところもありますが、安心安全に迅速に目的地に運んでくれる新幹線、これからも旅行、所用にとお世話になります。(64歳 女性)
- 米原から東京へ向う途中、乗車する予定の車両が運休になり、4歳と1歳の子を連れて指定のない車両に乗りました。通路にいた私たちに中年の男性が、こども達に座るようにと声をかけて、席を譲ってくださいました。混雑した中で、地獄に仏とはこのことだと思いました。その方のお顔は今でもうっすらと覚えています。新幹線の中だけではなく、困ってる人のお手伝いをしたいと思わせてくれた出来事でした。(75歳 女性)
- 秋田新幹線や山形新幹線は在来線との共用なので、初めて乗車した時は、踏切があったり、田園風景の中を走っているのが新鮮でした。秋田新幹線が、盛岡駅ではやぶさと連結して走り出した時は、今までのスピードはなんだったの?というぐらい速くて、心の中で笑ってしまいました。鉄道番組で放送された、秋田新幹線とSL機関車が並走している映像。あとから走ってきた「こまち」が、SL機関車に合わせて並走し、やがて抜き去っていく場面がお気に入りで、永久保存版にしています。新旧の時代を感じさせてくれる名場面!(62歳 女性)
- 22歳くらいの時、お盆に九州の友達のところから新幹線で名古屋へ帰ってきました。お盆で指定席がグリーン車しかとれず、数少ないグリーン車体験にリラックスしていました。途中、何かの都合で遅延し特急料金が払い戻されました。ほかの方には迷惑でしょうが、急ぎもしていなかった私は、お得にグリーン車を体験することができました。(61歳 女性)
- 今年3月に大宮から新青森まで新幹線を利用した際、途中で強風のため到着が遅れることが分かり、車掌さんに新青森からの特急「つがる」に間に合うか伺いました。その際、とても親切に案内していただき無事に乗ることができました。その時の車掌さんのアナウンスが忘れられません、ありがとうございました。(63歳 女性)
編集後記
新幹線を通じて、時代の流れを感じ、ジパング世代の皆様の人生を覗き見たようなアンケートでした。
皆様のアンケートの中にある「大阪万博」「東京オリンピック」や「インバウンド」などのキーワードからも時代を感じることができますが、今も昔も変わらず登場するのが「富士山」。
- 親の介護で、よく新幹線を利用しました。速くて予定が立てやすかったのを覚えています。途中で、富士山が見えるのですが、行く時は天気でよかった、帰る時は、もうすぐで家に着くと安心したものです(72歳 女性)
- 東京にいるこどものところへ行く時は、必ず左側の席をとって富士山を見ます。ところが、めったに富士山には出合えません。雲に覆われていたり、霞がかかっていたり。それでも2回ほど全容を見る事ができました。思わず「やあ~、富士山や富士山や」と声が出ました。右側に座っておられた人も窓側に来られてパチリ! やっぱり富士山ですね。(70歳 女性)
- いつも富士山が見える座席を予約します。車窓から富士山が見えた時は1日ハッピーな気持ちになります。(73歳 男性)
新幹線に乗車する楽しみのひとつですね。
また、初乗車が修学旅行だったという方も多数。紹介したエピソードの中にもありましたが、「乗車の練習をした」という方も複数いらっしゃいました。なんだか楽しそうですね。
新幹線に向けての感謝のメッセージもいただきました。
- 新幹線は、人生のお友達です。小さい頃から家族で出かける時はいつも新幹線、学生時代の帰省も、現在の旅行も、切っては切り離せない存在。愛着があります。この先もずっと、新幹線のお世話になる予定です。(68歳 女性)
- 新幹線があるおかげで、東京から名古屋に住んでいた母の介護もできました。母が亡くなった今は、日本各地に自由に旅行にでかけられます。ありがとうございます。(64歳 女性)
私も出張や旅行でお世話になっています!早朝だったり、仕事や遊びで疲れた状態で乗ることが多いので、寝てしまうことが多いのですが……。
ドクターイエローにも出合ったことがないので、いつかこの目で見てみたいものです。
次回もお楽しみに!