トレたび JRグループ協力

2008.11.01鉄道木曽川橋梁や余部橋梁など鉄道遺産を訪ねる旅

未来に伝えたい鉄道遺産

1872(明治5)年の新橋駅~横浜駅間開業以降、全国にその網を広げ続けてきたに日本の鉄道。厳しい地理的条件を克服するために、さまざまな技術が施された場所も少なくありません。できあがった当時の社会や先人たちの苦労を、無言で語っているかのような鉄道遺産。そんな、未来にも伝えていきたい名建築を訪ねる旅に出てみませんか。

木曽川橋梁(太多線)

重厚なトラスが雄大な、木曽川の古参鉄橋


川幅の広い木曽川に悠然と跨る橋梁。1928(昭和3)年以来休むことなく列車を渡し続けています

長野県より岐阜、愛知、三重県を経て伊勢湾に注ぐ木曽川は、距離も長く川幅が広く急流で知られ、多くの頑丈な鉄道橋が架けられてきました。太多線の可児〜美濃川合間にある木曽川橋梁はそのひとつで、1928(昭和3)年の架橋と、現役の木曽川の鉄道橋ではもっとも古い部類に属します。

太多線の木曽川橋梁は橋長307メートル、鋼重164.6トンの鉄橋です。主要部が「単線下路プラットトラス式」、その他が「単線上路プレートガーダー式」と呼ばれる鉄橋で構成されています。通過する列車に耐える構造の鉄橋は設計や製造が難しく、鉄道黎明期よりイギリスやアメリカなどの技術力に頼り発展してきました。


手前の部分は、V字を組み合わせたような骨組み構造をもつトラス橋部分。それより後ろはプレートガーダー式になっています

「プラットトラス式」は普及をしたトラス橋のなかでも、トラスを構成する斜材がVの字に組まれた鉄橋で、斜材に引張力が、垂直材には圧縮力が働くように設計されています。この逆の方式の鉄橋は「ハウトラス式」と呼ばれ、ともに後に貢献をしてきました。

このように設計者たちの試行錯誤や努力と苦労、そして高い技術力をもって完成した鉄橋はそれらが容姿の隅々にまで表れ、威厳や風格が感じられます。広い川幅の木曽川に架かる古風な鉄橋は雄大で、しばし時間を忘れさせます。先人たちの偉業を思い、鉄橋を鑑賞してはいかがでしょうか?ちなみに木曽川橋梁は鉄道院の日本人技術者のみにより設計が行なわれ、完成に至りました。

●交通 太多線・美濃太田駅よりタクシー約10分

門司港駅

九州を代表する、国の重要文化財の駅舎


銅板葺きのマンサード屋根が見事な門司港駅舎。背が高いですが木造2階建て構造で、九州をじっと見守ります

かつて九州への玄関駅であり、鹿児島本線の起点として華やいだのが門司港駅です。威風堂々とした2代目の駅舎はネオ・ルネッサンス様式。左右対称の美しいデザインが秀逸です。1914(大正3)年に建築された九州最古の木造駅舎で、国の重要文化財に指定されています。

門司港駅は1891(明治24)年4月に九州鉄道により門司駅として開業。門司港の発展にあわせて駅も繁栄していきます。さらに1901(明治34)年5月には、本州の下関とを結ぶ関門連絡船が就航。門司駅は交通の要衝としても大いに発展しました。しかし、1942(昭和17)年に関門トンネルが開通すると、現在の門司駅に名前を譲り、駅名は門司港となり、本州との交通量も激減。関門連絡船も1964(昭和39)年に廃止されてしまいました。


「紗舞館」(旧三等待合室)と現待合室(旧手・小荷物扱い所)。駅構内は鉄道遺産がそのまま残されています

現在の駅舎は、栄華を極めた戦前の時代の面影をよく残しています。「洗面所」「手水鉢」「旧一・二等待合室」「貴賓室」など多くの設備のほか、「関門連絡船通路跡」などの史跡も見られます。門司港駅は、九州の歴史と文化を伝える大切な遺産として後に見直され、昭和末期にはたび重なる改修が施されました。レトロ建築が人気の門司港の街とともに、シンボリックな門司港駅は再び注目され、今も多くの人々に親しまれています。

●交通 鹿児島本線・門司港駅下車すぐ

余部鉄橋(余部橋梁)

日本最大規模を誇るトレッスル橋


巧み鉄骨が組まれ構成されたトレッスル橋脚。長年の風雪に耐え続けた武骨な容姿は、貫禄に満ち溢れています

山陰本線鎧(よろい)〜餘部間にそびえる、かつて東洋一と言われた鉄橋です。1909(明治42)年12月に着工、1912(明治45)年3月に完成、開通。橋長は309.4メートル、高さ41.4メートル、11基の橋脚、23連の橋桁を持つトレッスル橋です。トレッスル橋は鉄骨などで櫓を組んだ橋脚を使用した橋梁で、景観が勇壮です。

余部鉄橋は米国アメリカン・ブリッジ社で鋼材が製造され、船積みされ門司を経て余部に陸揚げされました。アメリカ人橋梁技師の技術を仰ぎましたが、設計は日本人の吉川晴一が行いました。総工費は当時のお金で約33万円。延べ25万人の人員が投じられました。完成から90年の歳月が経ちますが、現在でも日本最大規模のトレッスル橋として活躍しています。その影には、保守との闘いもあります。日本海に面した余部鉄橋は潮風をまともに受け、橋脚の鉄骨が錆びやすく、これを食い止めるために「橋守(はしもり)」と呼ばれる鳶職人がかつて常駐し、鉄橋によじ登り、錆を落としペンキを塗っていたこともありました。今でも番小屋の土台が残り、面影がわずかに見られます。また、余部鉄橋は町の象徴でもあり、地元小学校の校歌のなかでも歌われてきました。


そこかしこに設置当時の面影を残す跨線橋

そんな余部鉄橋も老朽化と強風による運転規制減少のため、架け替えが行われることになり、2010(平成22)年完成を目標に工事が開始。コンクリート製の橋梁に生まれ変わることになりました。

●交通 山陰本線・餘部駅下車すぐ

  • 写真協力:JR東海(木曽川橋梁)/米屋浩二(門司港駅、余部鉄橋)
  • 掲載されているデータは2008年11月現在の情報です。変更となる場合がありますので、お出かけの際には事前にご確認ください。
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