トレたび JRグループ協力

2009.04.01鉄道室蘭本線旧線の痕跡をたどる

未来に伝えたい鉄道遺産

1872(明治5)年の新橋駅~横浜駅間開業以降、全国にその網を広げ続けてきたに日本の鉄道。厳しい地理的条件を克服するために、さまざまな技術が施された場所も少なくありません。できあがった当時の社会や先人たちの苦労を、無言で語っているかのような鉄道遺産。そんな、未来にも伝えていきたい名建築を訪ねる旅に出てみませんか。

往年の幹線跡をたどる

大きな都市間を結ぶ重要な交通路である幹線鉄道は、重要であるがため、創設以来、線路改良が頻繁に行なわれてきました。例えば、線路の複線化、電化、勾配や曲線の緩和など、少しでも列車が効率的に走れるよう、常に改善が図られているのです。線路改良は、場合によっては、勾配や曲線のある問題箇所を区間ごと放棄し、新線を建設して大規模にルートを変更してしまうこともあります。役目を終えた線路は廃線となり、かつての大幹線の空気をそのままに跡地は道路に転用、あるいは草に埋もれて「夢の跡」と化すなど様々です。今回は、そんな幹線鉄道が残した軌跡をたどってみましょう。

室蘭本線 礼文旧線

単線時代の長閑さが残る線路跡

函館〜札幌間の幹線鉄道は、以前は勾配のきつい倶知安(くっちゃん)経由の函館本線がメインルートでした。現在の室蘭本線ルートは噴火湾(内浦湾)の礼文付近などに断崖絶壁が海岸線に迫り、海岸沿いに線路が敷けず、長大トンネルを掘って開通させました。しかし大半が単線で、輸送力は逼迫。複線化が行なわれたのが昭和30年代です。この頃から室蘭本線ルートが幹線の主役として機能するようになり、線路改良も急速に進みます。

室蘭本線の線形や車窓に特徴のある礼文〜大岸〜豊浦間は大規模なルート変更が行なわれており、旧線の痕跡をたどることができます。

礼文〜大岸間は、現在トンネルで貫通していますが、昭和50年10月の複線化までは、礼文華(れぶんげ)海岸に沿って線路が敷かれていました。岩礁がそそり立つ礼文華海岸の風景は名所でもありましたが、現在、線路跡は草むらになっています。


岩礁が波打ち際にそそり立つ礼文〜大岸間の礼文華海岸の旧線。右手の草むらが線路跡で車窓も美しかった

また、大岸から豊浦は、現在線とはまったく異なる国道37号線に沿った山側のルートを走っていました。途中には豊泉という駅もあり、勾配の厳しい峠越えが行なわれました。1968(昭和43)年9月の複線化の際、現行の長い複線トンネルを貫通させ、新線に切り換わっています。


大岸〜豊浦間の現在線。室蘭本線の険しい海岸線の様子がよく分かる。新線はここに複線トンネルを貫いた

旧線の跡は道道608号線に利用されていたり、単線のままの築堤や小道が残っていたりします。途中の豊泉駅跡には緑に囲まれたホームも現存し、長閑な時代の幹線を偲べます。

●交通 室蘭本線 大岸駅下車

東北本線 白河旧線

ルート変更前の幻影漂う「汽車みち」


豊原〜白坂間の旧線跡は単線の白き道。穏やかな風景だが、かつては東京と青森を結んだ重要な交通路だった


豊原駅付近に設けられたレンガ橋台を利用したモニュメント

東北本線は1891(明治24)9月に、私鉄の日本鉄道により青森まで全通しましたが、上野〜青森間の線路は現在線とは異なり、急勾配と曲線の多い幹線鉄道らしからぬものでした。東北本線は建設技術が未熟だった明治初期に急ピッチで建設。トンネルの掘削を回避するため急勾配、急曲線が増え、河川への鉄橋架橋のために生じる曲線など、緩やかな配線が成されませんでした。このため輸送力に支障を来たし、後に多くの区間で線路改良が行なわれました。大規模なルート変更も各地で行なわれています。

黒磯〜白河間もその一つで、1920(大正9)年に早くも変更されています。この区間は現在、山間を切り通しや大築堤、鉄橋などで緩やかに抜けていますが、かつては集落や田んぼのある台地に、勾配や曲線の多い線路が敷かれていました。

高久(たかく)駅付近から分かれる旧線跡を利用した道路を、地元の人々は「汽車みち」と呼んでいます。小川に架かる橋を覗きこむと、当時のレンガの橋台がしっかりと支えていて、明治と鉄道の香りを強く醸し出しています。このルート変更で、黒田原駅と豊原駅が大きく移転をしましたが、旧黒田原駅舎はやや離れた場所に郷土資料館として移築保存されています。

集落となった旧豊原駅跡から白坂までは、単線の線路幅の道路が続き、鉄道の雰囲気が漂っています。小道にたたずみ風に吹かれていると、汽笛が今にも聞こえてきそうです。

●交通 東北本線 豊原駅

御殿場線 第二酒匂川橋梁

華やかかりし東海道本線の旧ルート

天下の険、箱根越え。東海道本線は、1934(昭和9)年に完成した丹那トンネルにより熱海経由で峠越えをしていますが、それまでは、国府津(こうづ)より御殿場を経由して沼津に至る、現在の御殿場線で箱根を越えていました。御殿場経由は25‰(パーミル)の急勾配が連続する急峻な峠越えです。途中の山北駅では補助機関車を連結し、貨物列車は分割させ、サミット(山頂)の御殿場駅で補助機関車を開放しました。御殿場線は単線電化路線ですが、当時の旧東海道本線は複線非電化路線。多数の蒸気機関車が集まり、一日中列車が走り続けました。

丹那トンネルの完成で、国府津〜沼津間の従来線は御殿場線となり、1943(昭和18)年には複線だったレールの片側を撤去し、単線化されてしまいました。

御殿場線は静かなローカル線となりましたが、現在も東海道本線時代の面影がそこここに残されています。その代表格が山北〜谷峨(やが)間の「第二酒匂川橋梁」です。


複線用の橋脚は大幹線の何よりの証し。列車は高頻度で往来し、特急は御殿場駅で補助機関車を走行開放(自動開錠)した

ここにはかつて複線分の鉄橋が架けられ、それを示す複線用の石積みの橋脚があります。勇壮で風格があり、いかにも大幹線らしい立派な造りです。また、前後には複線時代のトンネル跡も見られ、車窓からもそれをたどることができます。


国府津〜沼津間の開業は1889(明治22)年2月と古く、橋脚の造形からも歴史の重みがよく感じられる

山北駅はひっそりとした小さな駅ですが、昔は300人もの鉄道員が働いていたそうです。広い構内が昔日を語り、東海道本線の過去の栄華を現在に留めています。

●交通 御殿場線 谷峨駅から徒歩約20分

  • 文・写真:斉木実
  • 掲載されているデータは2009年4月現在の情報です。変更となる場合がありますので、お出かけの際には事前にご確認ください。
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