トレたび JRグループ協力

2011.06.01鉄道国鉄&JR 列車名研究所 第11回「海の名前」の列車たち

―ネーミングの妙と歴史、調べます―

人と同じように列車にもそれぞれ名前がある。ネーミングが“キラリ”と光る列車たち。その名前に込められた想いと、その列車の歩んできた道のりを調べてみました。

第1章 古の日本海縦貫列車。北海道乗り入れも行なったブルートレイン

【日本海】沿線に広がる日本海に由来

東北本線は1891(明治24)年に全通していますが、日本海縦貫線はそれよりやや遅れて、1924(大正13)年7月31日、羽越本線の全通によって完成しました。これにより神戸~青森間に日本海縦貫線を直通する急行列車が設定されます。この列車は車中2泊を要したため、1926(大正15)年8月改正ではスピードアップして1泊に改められましたが、戦局の悪化により、1943(昭和18)年には廃止されてしまいます。

戦後、1947(昭和22)年7月5日、大阪~青森間に日本海縦貫線を直通する急行列車が復活し、1950(昭和25)年11月8日には同列車に晴れて「日本海」の愛称が与えられます。大阪発22時30分→青森着22時42分、青森発5時40分→大阪着5時57分というダイヤで走行し、青函連絡船を介して函館駅まで乗り入れ、急行「大雪」に接続していました。

当時は蒸気機関車の牽引で峠など難所も多く苦行の長旅でした。客車も古い3軸ボギー車が使用されるなど、あまり評判はよくありませんでしたが、徐々に近代化が進められ、1965(昭和40)年にはディーゼル機関車も投入、1968(昭和43)年10月1日のダイヤ改正では20系ブルートレインを投入し、特急化が行われました。

しかし、翌1969(昭和44)年12月6日には不運にも北陸トンネル内で「日本海」が列車火災事故を発生。機関士の機転により、トンネルから列車を脱出させたため、死傷者は皆無でした。

1975(昭和50)年3月10日のダイヤ改正からは湖西線経由となり、大阪~秋田間はEF81形、秋田~青森間はED75形の電気機関車牽引の運転となります。車両も14系化されましたが、食堂車の連結が廃止されてしまいました。翌、1976(昭和51)年からは季節列車の「日本海1・2号」が24系25形化され、1978(昭和53)年10月2日に定期列車に昇格し、24系、24系25形各1往復ずつに変更、1982(昭和57)年11月15日のダイヤ改正には客車がすべて24系25形化されます。

1986(昭和61)年からは「日本海1・4号」にマニ50形荷物車を連結し、オートバイを輸送する「日本海モトとレール」を取扱い運転。また、翌1987(昭和62)年からは「日本海3・2号」に開放式A寝台が連結されます。

1988(昭和63)年3月、青函トンネル開業により「日本海1・4号」が函館まで延長運転され、北海道に乗り入れを果たします。その際に、廃止されていた食堂車を復活させる構想があり、実際に車両も用意されましたが、この車両スシ24形は新設の「トワイライトエクスプレス」に使用されることになり、「日本海」の食堂車復活は幻に終わりました。その後、1998年8月には「日本海モトとレール」の取扱いが終了。

同年、「日本海1・4号」にA個室「シングルデラックス」連結と続きますが、せっかくの「日本海」の函館乗り入れが2006年3月18日に中止されてしまいます。運転は次第に縮小傾向にあり、2008年3月15日には「日本海2・3号」が廃止され、1往復になってしまいました。現在、「日本海」は青森車両センターの24系客車が使用され、開放式A寝台のオロネ24形を連結し、ブルートレインの風格を固守して大阪~青森間を力走しています。


日本海縦貫線電化、湖西線開業後はEF81形電気機関車が大阪~青森間をロングラン運用している


オロネ24形 「日本海」には開放式(プルマン式A寝台)のオロネ24形が堂々連結。風格が感じられる


EF81形 外観 湖西線を快走する現在の「日本海」。残りわずかとなったブルートレインとして貴重な存在だ

第2章 四国連絡急行として誕生。後にサンライズで再デビュー

【瀬戸】沿線の瀬戸内海に由来

東京~四国連絡の宇野間に直通列車が走ったのは1950(昭和25)年4月1日からで、同年10月1日改正では初の急行列車が乗り入れを行ないました。この直通急行は東京~岡山間においては東京~広島間を運行する「安芸」に併結されて運転していました。宇高連絡船を介して四国側の高松桟橋~松山間には準急「せと」が、高松桟橋~須崎間には「南風」が併設され、接続していました。「せと」は1951(昭和26)年4月11日からは宇和島まで延長されます。

四国連絡急行は1951(昭和26)年9月から単独運転となり、同年11月からは東京~大阪間で、東京~大社間急行「出雲」に併結されて運転が行なわれ、12月には四国内準急に合わせて「せと」の愛称が与えられます。1956(昭和31)年11月のダイヤ改正では「出雲」から分離して単独運転となり、愛称も漢字の「瀬戸」に変更されます。

「瀬戸」は座席車が中心でしたが、後に寝台車や食堂車も充実し、編成も豪華に変化していきます。1964(昭和39)年には「さぬき」が新設されて四国連絡列車が華やぎますが、1968(昭和43)年10月のダイヤ改正では「瀬戸1・2号」に統一されました。また、指定券を発行する際、障害となるため、四国内の「せと」は「うわじま」に統一されることになりました。

1971(昭和46)年には20系に代わる新たな新型の寝台客車として寝台幅を70cmに広げた14系客車が「瀬戸」に先行投入されました。翌年には10系寝台車に戻されてしまいますが、ひととき「瀬戸」が大きく輝きました。

新幹線岡山駅開業の1972(昭和47)年3月15日ダイヤ改正で「瀬戸」は昼行客に利用客が移行することを見込んで1往復体制となり、本州~四国輸送を強化するため、20系ブルートレイン化されて特急に格上げし、寝台特急「瀬戸」として新たなスタートを切りました。高松では「しおかぜ」「南風」に接続したダイヤが組まれました。

「瀬戸」は途中で食堂車の営業休止が行なわれますが、1977(昭和52)年9月には二段式寝台の24系25形に置き換えられ、サービスが改善されます。そして1988(昭和63)年4月10日には、瀬戸大橋線の開業によって運転区間が宇高連絡船の乗り換え無しの東京~高松間になり、大いに注目されます。1990年3月からはA室寝台「シングルデラックス」、シャワー室を設けた「ラウンジカー」が連結され、グレードアップが図られます。

1998年7月10日、「瀬戸」は大幅なサービス改善が行なわれ、それまでの24系客車を個室寝台が主体となった新製の285系電車に置き換えて電車化。新たに「サンライズ瀬戸」の列車名で運転が行なわれます。東京~岡山間では「瀬戸」と同様に285系電車化した「サンライズ出雲」と併結して走行。「出雲」との併結運転は奇しくも昭和20年代のリバイバルとなりました。グレードの高い「サンライズ瀬戸」は乗客に大評判となり、新時代の夜行列車の魅力を伝える列車として毎夜活躍しています。


24系25形客車が使用された「瀬戸」。晩年はグレードアップ化された金帯車が投入された


「サンライズ瀬戸」 外観 「サンライズ瀬戸」として大きく生まれ変わり東海道本線を行く。その姿は大いに注目された


「サンライズ瀬戸」のゆったりとした主力個室「シングル」。内装は大手住宅メーカーが担当した

文・写真:斉木実 写真協力:裏辺研究所(裏辺金好)
※掲載されているデータは2011年6月現在のものです。

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