2024.05.23鉄道0系新幹線を振り返る ~東海道新幹線開業から60年、「夢の超特急」の初代車両~
2024年は、東海道新幹線開業から60年という節目の年です。
初代新幹線車両0系は、日本の鉄道史に燦然と輝く車両です。2008年11月30日に営業運転終了するまでの、世界の高速鉄道の先駆けとなった0系新幹線の約44年間の歴史を振りかえります。
- ※本記事は2008年4月公開の記事を再構成したものです
憧れの「夢の超特急」が誕生!
1964(昭和39)年10月1日、東京〜新大阪間を結ぶ「夢の超特急」の東海道新幹線が開業。
新丹那トンネル熱海口で東海道新幹線の起工式が行われた1959(昭和34)年4月20日から世界に類例のない最高速度210km/hの高速鉄道建設が推進され、東京オリンピック開催の10日前に営業運転を開始。在来線の高速化で培われた技術を結集し、200km/hの壁を破る高速鉄道のトータル的な「新幹線システム」が完成した。
なお、開業時の東京〜新大阪間の所要時間は超特急「ひかり」が4時間、各駅停車の特急「こだま」は5時間であったが、1965(昭和40)年11月1日改正から当初の目標であった「ひかり」の3時間10分、「こだま」の4時間運転を開始。また、列車名は一般公募で第1位であった「ひかり」が超特急、東海道本線の電車特急として親しまれていた「こだま」が特急に選出され、光速と音速をイメージする新幹線にふさわしい列車名となった。
- ※写真:東京駅発6時の超特急「ひかり1号」の出発式。国鉄総裁のテープカットとともに新大阪に向けて発車した。
「弾丸列車計画」と新幹線
昭和初期、東京〜下関〜大陸の主要都市間を高速で結ぶ「弾丸列車計画」が策定され、特に在来線の線路幅が狭軌(1,067mm)であった東京〜下関間は標準軌(1,435mm)の新幹線を建設することになった。
1941(昭和16)年8月にはトンネル工事などがスタートし、日本坂トンネルは貫通、新丹那トンネルは3分の1が掘削されたところで工事が中断した。実は東海道新幹線の約18%にあたる100kmは弾丸列車計画時に買収した建設用地。さらに在来線が使用していた日本坂トンネルを新幹線用に転用するなど、夢の構想に終わった「弾丸列車計画」が新幹線建設に役立つことになった。
新幹線車両の開発
1962(昭和37)年6月に試作車の1000形A編成とB編成が完成。鴨宮付近に設置されたモデル線で走行試験が繰り返され、B編成は当時の電車の世界最高速度の256km/hをマークした。
1964(昭和39)年2月には試作車で得たデータを元に客室の機密性などを改良した「新幹線旅客電車」12両編成が登場。車体前面形状は空気抵抗を減らすための丸みを帯びた航空機のような流線形スタイル、車体塗色はアイボリーホワイトとブルーの爽やかなツートンカラーを採用。開業当初は30本360両であったが、1986(昭和61)年登場の38次車まで計3,216両が製造され、長期間に渡って東海道・山陽新幹線の顔として活躍した。
なお、当初は「0系」という系列称号はなく「新幹線旅客電車」であったが、1980(昭和55)年に東北・上越新幹線用の車両(200系)が登場することになり、系列を分類する必要が生じたため、新幹線の原点・すべての始まりを意味する数字の0を付けて「0系」となった。
- ※写真:1976(昭和51)年ごろの新幹線の車内。210km/hという未知の世界を体感することができた。
ビュッフェ車と食堂車
開業当時の在来線の特急列車には食堂車が連結されていたが、東海道新幹線では12両編成の5・9号車の半室に軽食が楽しめるビュッフェのみを連結。列車の乗車時間が短いことから軽食の提供に留めたものだが、1975(昭和50)年3月10日の山陽新幹線博多開業では東京〜博多間の乗車時間が6時間を超えるため、1974(昭和49)年9月5日から16両の「ひかり」編成の8号車への食堂車の連結を開始。
その後、通路を挟んだ壁に窓を付けて富士山を眺めながら食事ができるように改良。約20年間に渡って食堂サービスが続けられたが、豪華なステーキ列車なども登場して話題を集めた華やかな時代もあった。
- ※写真:富士山をバックに走る0系「ひかり」。長年に渡って東海道・山陽新幹線のエースとして活躍した
しかし、100系「ひかり」や300系「のぞみ」が主役に移り変わると、0系は食堂車を廃止して「こだま」やカフェテリアを新設した「ウエストひかり」に変身。ビュッフェ車を改造したシネマカーや遊具がある「こどもサロン」も登場して人気を博した。
- ※写真:車窓風景を楽しみながら食事ができる食堂車。レストランのような豪華なメニューも登場した
0系車両 最後の活躍
1964(昭和39)年から1986(昭和61)年までの22年間に渡って計3,216両が製造された0系車両。1976(昭和51)年には最大の2,338両が在籍したが、これだけ長期に渡って製造されたのは高速鉄道車両として完成度の高い車両であった証しだ。
小型窓やリクライニングシートの採用などマイナーチャンジが繰り返されたが、普通車の最初の座席はリクライニング機能のない転換クロスシートを採用。1981(昭和56)年にリクライニング機能が付けられたが、3席側の座席は回転できずに中央を境にした向き固定となった。
その後、100系は全座席が回転式リクライニングシートで登場となったが、0系はゆったりと座れる2&2シートに順次交換。次世代新幹線車両とのサービス格差を補うため、車内のリニューアルも行われ、運用終盤の0系では車内の天井にある空調ダクトに登場時の面影を残すのみであった。
世界初の高速鉄道車両となった0系の活躍は、2008年11月30日に終止符を打った。最後にこの列車に乗車したときは44年間の歴史が脳裏を駆け抜けて行くような気がした。
- ※写真:ビュッフェ車を改造したカフェテリア。山陽新幹線の「ウエストひかり」で活躍した。
- ※文:結解 喜幸
- ※写真:結解 喜幸、結解 学、交通新聞サービス