三木(みき)城跡と石の宝殿(ほうでん) 兵庫県三木市・高砂(たかさご)市・明石(あかし)市
日本の穴場スポットに行ってみたい。しかも安く楽しみたい。
そんな欲望のままに東へ西へ、一人でぶらりと旅立った。
今回は10,000円ぽっきりで、大阪駅から兵庫県三木市、高砂市、そして明石市へ。
天下統一を果たした豊臣秀吉に落とされた、哀愁漂う「三木城」の歴史にしんみり。
そこから南西の加古川駅に降り立ち出会った、デミグラスソースたっぷりの「かつめし」飯テロ。
高砂市にある日本三奇の一つ「石の宝殿」とは一体何なのか…。
最後の収支報告まで、お見逃しなく!
戦いの歴史にしんみり かつめしで満腹
羽柴(はしば)秀吉(のちの豊臣秀吉)は、城攻めの名人として知られていた。史上名高いものだけを挙げてみても、鳥取城、備中(びっちゅう)高松城、小田原城などを攻め落としたのはつとに有名である。しかし逆の立場、秀吉に攻められた側の物語はあまり脚光を浴びることはない。今回はそんな秀吉に落とされた城の一つ、三木城を訪ねてみることにした。
大阪駅を8時過ぎの東海道本線の列車で出発し、神戸三宮と新開地で神戸高速線を乗り継ぐ。しばらくうとうとして、ふと気がつくと車窓にはのどかな田園風景が広がっている。10時過ぎ、三木上の丸駅に到着。木造の駅舎に待合室、少しくたびれたベンチなどが哀愁を誘う。
三木城は城下が見渡せる小高い山の上に築かれていた。いわゆる三木合戦と呼ばれる籠城(ろうじょう)戦では、織田信長の家臣だった羽柴秀吉の軍に包囲され、1年10カ月におよぶ「三木の干し殺し」と呼ばれる兵糧(ひょうろう)攻めが行われたという。籠城した兵士が、飢えから壁土の藁(わら)を食べたという言い伝えが残されているほどに凄惨(せいさん)な戦いの末、刀折れ矢尽き、そして食糧も枯渇(こかつ)した。
事ここに至り、飢えに苦しむ家臣・領民の命を救うことを条件として、天正8年(1580)1月17日に開城し、城主・別所長治(べっしょながはる)をはじめ、一族は自刃(じじん)して果てたという。
その際、長治は「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば」という辞世の句を残している。まだ23歳。実に見事で潔い出処進退には心を打たれる。現在、三木城跡には長治の辞世の句碑をはじめ、その武勇を称賛するものが多々あり、いかに三木市民から慕われているのかがよくわかる。
二の丸跡からは備前焼大甕群(びぜんやきおおがめぐん)を埋設した穴も発見され、一つの大甕の底から炭化した麦粒が検出されたことから、食糧貯蔵庫として使用していたと考えられている。しかもほとんどの甕の底は空だったことや、わずかな量しか検出されなかったことから、兵糧攻めにより食糧が尽きたことを裏づける貴重な史料であるという。現在二の丸跡には、みき歴史資料館が立っていて、三木合戦に関する資料が展示されている。
また二の丸跡の南に位置する雲龍寺には、長治の首塚が残されている。
三木をあとにし、列車で加古川(かこがわ)駅まで移動する。駅を降りると「かつめし」という幟(のぼり)があちらこちらで目についた。駅から少し離れた、じけまち商店街を進んでいくと「かつめし」のPRキャラクター・かっつんとデミーちゃんのかわいらしいモニュメントを発見! 加古川市の本気を見た気がする。是が非でも加古川名物・かつめしを食べねばなるまい。
さらに歩いて行くと、丸万本店という老舗のそば店があり、例の幟が立っていたので入ってみた。
かつめしとは市内の飲食店では、ほぼどこの店でも食べることができるが一歩市外に出ると目にすることがない、不思議なメニューであるらしい。ご飯の上にカツをのせ、デミグラスソース系のタレをかける。これが大まかなかつめしの定義とのことである。
カツのさっくり感とソースの濃厚な味、いやぁ〜おいしかった! 腹が減っては戦はできぬ。満腹になって翌日の目的地、宝殿へと移動した。
不思議な石と 見えない線と
翌日、目指したのは「石の宝殿」。これは高砂市にある生石(おうしこ)神社の御神体。高さ約5.6m、幅約6.5m、奥行き約7.5m、推定重量約500tの巨大な石造物で、日本三奇の一つとされている。何が「奇」かというと、まずはその大きさ。そして、明らかに人の手が加えられたものであるにもかかわらず、三方が断崖に囲まれた狭い空間にあること、深く切り込まれた石の下のくぼみに溜まった池の水は、どんな干ばつでも干上がることはないということ。などなど「奇」なポイントが目白押しだ。
また池の水面に映った石を見ていると、まるで水の中に浮かんでいるように見えることから、浮石とも呼ばれている。さらに背面に、これまたなんとも奇妙な突起部がある。見れば見るほど、そもそも一体これは何なのだろう? 誰が、何の目的のために造ったのだろう? とつくづく不思議に思えてくる。さらにこの石、御神体であるにもかかわらず、上からも下からも360度すべての角度から見られ、実際にふれることもできるのである。
神社の裏側には岩肌がむき出しになった宝殿山頂へと続く道がある。山頂部はさえぎるものがなく、心地よい風を全身に受けられる。あまりの気持ちよさにしばらくボーッと佇む。遠くには高砂市総合運動公園の野球場があり、選手たちの声がいいBGMとなってついうとうとしてしまった。ここは完全に別世界!
次に目指したのは明石市だ。明石といえば、日本標準時の基準となる東経135度の子午線(しごせん)が通る町として知られている。そこで日本の標準時間を体感するべく市内にある子午線標識を訪ねてみることにした。
まずは子午線標識めぐりの起点、人丸(ひとまる)前駅へ。この駅は「近畿の駅百選」にもなっていて、ホームには子午線が横切る表示もある。駅の南には日本最初の子午線標識があり、石に彫られた「大日本中央標準時子午線通過地識標」の文字が歴史を感じさせる。
続いて駅の北側に回って、小高い人丸山にある“トンボの標識”と呼ばれている子午線標示柱から明石の町並みや明石海峡大橋を眺めた。目には見えないはずの線が、こうして町なかに設置された標識を訪ねることで、一本の真っすぐな線として確かに見えたような気がした。
さて今回使ったお金は?
残金97円!
著者紹介
- ※写真/佐竹 敦
- ※本連載は、月刊誌『旅の手帖』2022年3月号からの転載です